梶藤です。
多分、これが最後のブログになるかもしれません。だから少し、真面目に、少しシンミリと書いてみます。
先日、こんなコメントをいただきました。
「僕は11年卒の駅弁大学生なのですが、就職して金を得る意味とか、人生において仕事って何なのかって昨年の10月頃から考えてまともに就職活動しませんでした。
面接に行っても、自分の言っていることの空虚さに気づくし、嘘なんてつきたくない。でも、それを言わねば、演じ切らねば人生の負け組としてレッテルを張られることへの恐怖とそれを求められる理不尽さに悩み続けています。
自分はホワイトカラーになりたい、ブルーカラーにはならないんだという意識があります。前者なら自分のレゾンデートルを得られそうだが、後者は遣労働者に代表されるような「使い捨て」で、バイト先の社員はまさにそんな扱いを受けていました。
僕は社会に価値ある人間に、とっかえの効かない人間になりたいです。
でも、自分のレゾンデートルを与えてくれるのを期待する社会を一方で僕は軽蔑しています。じゃあ社会なんて関係なく(世間体など気にせず)自分の小さな物語を生きたらいいのかもしれません。
自分の信じる価値観で生きたら…でも怖いんです、名前のない代わりの効く「誰か」になるのが、両親の期待を裏切るのが。 …みたいなことを思いながら夏を過ごしています。」(8月9日 R)
1998年。日本単独の金融危機で、就職活動は困難を極めました。
しかし、おいらはこのとき、ほとんど引きこもりの状態にありました。
夜寝る前にこのまま眼が開かなかったら、と思い、朝起きて生きていることにうんざりする毎日。
飯だけを無理やり体に押し込むと、それでも生きて飯を食おうとしているということのわけのわからなさに、涙が出る始末。
なんと過剰で、醜悪で、あまりに脆弱な自意識!
人は自分と折り合える程度にしか社会と折り合えない
精神科医の斉藤環が言った言葉です。
社会に承認されるような何者かになりたい、という思いは裏を返せば、何者にもなりえない、誰とでも取替え可能な自分の生を受け入れられないことの証左。
おいらはそのことに耐えられなかったのです。
かといって、自分が生きてきた人生を振り返って、あるいは自分の能力を冷静にみて、単独で何かを為し得るような人間でないことは数秒待たずわかること。
堂々巡りを繰り返すうちに、社会から退却し引きこもりになっていました。
社会で生きるとは多かれ少なかれ、Rさんの言う『名前のない代わりの効く「誰か」になる』ことです。それは実は、ブルーカラーだろうが、ホワイトカラーだろうが一緒です。
おいらが居なくなれば、同じ仕事が引き継がれ、誰かがやるだけ。結論にたどり着くのが早いか、遅いかの違いがあるくらい。
仕事とは、そういうものです。Aというものを、どうやってBに移行するのか、ということを、必死で考えたり実行しているうちに、終わっていくものなのです。そして多少の紆余曲折やできばえの違いはあれども結論は同じようなものです。さらに現在のように複雑化した社会ではさらにマニュアル化が進み、誰がやっても同じできばえになるようコントロールされる傾向がますます進みます。
また、例え何か成功をして世間から拍手喝采を受けても、時間とともに忘れられるか、時代が変われば、その評価だってマイナス評価になることもある。
誰とでも入れ替え可能な人生、それが真実っぽい。
だったら、伸びきったゴムのように諦観して生きるか、今が楽しければいいと後先考えずに遊びまくるか・・・全員がこんな風に考え始めたら・・・
(どちらも根底には深いニヒリズムが横たわっています。)
でも、どうしてそんな風に無茶苦茶にならないのでしょうか。みんな、それでも必死に生きていますよね。
引きこもりを脱し、何とか、コープこうべに拾ってもらい、1999年入所。
すぐに店舗の畜産担当者に配属され、いきなり包丁を握らされ、巨大な肉の塊を目の前に放り投げられました。
まな板の前で、呆然と立ち尽くしたことを、今でも忘れません。
Rさんの言うブルーカラーになった瞬間です。
上司に怒鳴られながら、それでも必死に肉のさばき方を覚え、商品作りを覚え、一人で売場を任せられるまで3ヶ月。上司はそれまでほとんど休みなしでおいらを育ててくれました。
お前を教えることは木を育てることと同じや。
お前がおかしな方向に枝を伸ばしそうになるたびにわしがそれを摘んでやっとんや。
社会から退却しようとしていたおいらを、一人前に人前で挨拶ができ、人を気遣い、うまく協力してやっていけるように真っ当な人間として育ててくれたのです。
一緒に働いていたメイトさんたちは、母親のようにおいらを励まし続けてくれました。
毎日チーフは梶藤君を怒っとるけど、あんたがおらんときはいっつも心配しとんやで
そういって、こっそりとケーキを差し入れてくれました。
毎日、来店される組合員さんは、おいらの作った商品を、おいらが陳列した商品を毎日買ってくれます。
「ここのお肉はきれいやからねえ」
と言われることがどんなに嬉しかったか。そのことをメイトさんに伝えると「良かったなあ、梶藤君の商品はきれいやからねえ」と我がことのように喜んでくれて。
おいらは、幸せな職業をしているかもしれないと思いました。
作る喜び、それを買ってもらい、喜んでもらえる喜び。
いわば二重の歓びに支えられた仕事をしているのだと、思いました。
もちろん耐え難いほど嫌なこともありました。実際には辞めたくなることも、たくさんあったのです。
両親からも「お前はそんな仕事をして・・・」といまだに言われます。
退却の記憶があるおいらは、「こんなことやっていたって意味がない。生きてることなんて楽しくも無い」と思い、癖のようにニヒリズムに陥るのです。
そのたびに、仲間の誰かが励ましてくれました。努力し続けることで組合員さんも絶対に最後は答えてくれましたし、それは「声」となって返ってきたのです。
こうして気付けば、10年が経っていました。
今、振り返って、誰とでも入れ替え可能な人生、という真実をどう思うか。
それは一面、真実だったけど、この歩いてきた道、そして出会った人々、言葉、苦しさも含めて味わった経験、それ自体は、誰とも取り替えの利かない、おいら、という「個」を紛れもなく証明してくれている、と、そう感じています。
答えです。
社会に出ることは名前の無い、誰かになることです。誰とでも取替え可能な個になることです。
仕事にも、人生にもたいして意味はありません。時代に流され、社会という歯車の一部になるだけです。面接はそのための訓練です。だからマニュアル対応しなさい。
それは虚しいか。
虚しいこともあります。
でも、ごくたまにかもしれませんが、自分が必死にのたうち回って歩いてきた道を、愛おしく思うことがあります。
そして、いつでもそこには人がいました。
まだ奥さんと一緒になる前、おいらは、仕事帰りの電車に乗ると、涙が止まらなくなることがよくありました。
夜の電車には、おいらと同じように疲れたサラリーマンや塾帰りの学生たち、お年寄りや子どもがそれぞれの思いに浸りながら同じ帰路を急いでいる。
人生はむなしい、社会に生きることにも意味が無い、それは真実だが、なぜ、ならば人はこうして社会を生きるのか。ニヒリズムに襲われた人間が、毎日電車の中で刃物を振り回してもおかしくないではないか。
同じ電車に乗っているその瞬間、こうして何人もの生を抱えながらそれでも社会が回っていること自体が、奇跡におもえる。
どうして社会はそれでも回っているのか、人は生きていけるのか、それ自体、奇跡ではないか、と。
何者かになりたい君へ
君はもう、かけがえのない君になっている、そうおいらは思う。